Sunday, September 06, 2009

天使と悪魔のDNA (3)

先日,たまたま肉片が一切れ余ったので,ぐれぐのフードにだけこっそり追加したことがある.犬同士は互いに見えないように仕切られてるので問題無かろうと判断したのだが,果たして誰も気づかず(あるいは気にせず),ガツガツと自分の分を平らげてくれた.

そーそ,犬はそれでよろしいと満足して立ち去ろうとすると,目に入ってくるのがぺぐ.
自分のフードに見向きもせず,ぐれぐの方角の仕切り板をじっと睨んだまま固まっている.そして,わざとらしくゆ~っくりとこちらを振り向く.
どこでどう察したのか,ぐれぐの特別待遇を見破った上に,プチハンストで遺憾の意まで表明してみせたのだ.
まぁどうでもいいことかもしれないが,一事が万事そんな感じで,ちょっとずつ引っかかる.
とにかく,この犬は一筋縄ではいかない.

おバカ天使のきゃすと小悪魔ぺぐ.
とても同じ両親から生まれたとは思えない.
...というのは実はウソ.
まさに血のつながりとしか言いようのない,しっかりと共通する何かがある.
もちろん濃淡はあるが,特に家族や動物に向ける態度にそれを感じる.
それを言葉にするのは難しい(てゆーか,迂闊にはしたくない)が,まさしく私たちが望んだものを両親から引き継いでくれている.

だから今,,,意思の弱い男はノーガードで打たれっぱなしである.
せっかくの居住ルールも風前の灯だ.
 

天使と悪魔のDNA (2)

さて,頭数が多いとどうなるかというと,必然的に,一頭一頭にかける時間は短くなる.
食餌は同じものを一斉に出すだけだし,トイレはまとめて裏庭に放流して,頃合を見てばーっと回収する.
自主性と協調性を育むためとか,地震の災害訓練を兼ねてとか理由はいろいろだが,基本的には面倒だからだ.

こういうときは一々余計なことを考えず,流れに従ってくれる犬が素敵だ.
例えばきゃす.
彼女は一応,娘の犬ということになっているが,クラブで忙しく思いの他薄情な主人からは何も教えてもらっていない.だから呼びのコマンド一つ知らないのに,周りの犬がだーっと駆け寄ってくると,あわててみんなに付いてきて,そのままだーっとケージになだれ込んでくれる.
たまに,入り口を閉められてから「えっ!?私,ハウスしちゃったの?」てな顔をしてるが,フフフもう遅いのだよ,おバカちゃん.

これと真逆路線を行くのが同胎犬のぺぐ.
他犬と駆けてくるまでは一緒だが,部屋に上がる直前で立ち止まり,そして考える・・・「このままみんなに付いていくと,私の運命はどうなるんだろうか?」
片腹痛い.
あるいは,途中から一人だけコースを逸れ,物置の裏に潜り込んでウツボになる.そうやって時間稼ぎしながら,あわよくば遊びに引きずり込もうという魂胆なのだ.
いつも決まってそうなら,対処の仕方はいくらもあるのだが,これがある日を境に急に態度を改めたりするもんだから,事はそう単純じゃない.


つづく
 

天使と悪魔のDNA (1)

10年前には想像もしなかったことだが,今,5頭のコリーと同居している.
室内飼いなので,一つ屋根の下に犬5頭と人間2.2人が棲息しているわけだ(週末の男=0.2).

そう書くといかにもだらけた感じだが,居場所には一応のルールがあって,居間やキッチンは人間の占有スペースということになっている.
ただし家主の性格そのままに運用はユルい.せいぜい,「ここは人間の領分なんだから,ちょっとはわきまえなさいよ」くらいな感じ.

特例として,最年長であるさん=アニキは居間での寝起きが許されている.
別に身体の調子が悪いとか,隠居させたというわけじゃない.土間に放置しておくと緩慢に家が壊れていくからである.
この待遇を彼がどう思ってるかは知らないが,日がな一日,Hiroの足元やソファで寝そべっている.

カイラは特技の人たらしの術(遠くからウル眼で見つめて耳をピコピコさせるとか,足の甲に乗って後頭部を脛にくっ付けるとか,膝の上によじ登ってヘソ天で鼻鳴らすとか)を駆使して,いつのまにか侵入していることが多い.
何とかケジメは付けたいが,この攻撃に百戦百敗の意志の弱い人間が約0.2名いて,すぐに居間に上げてしまう.
まぁこの世には,人の力ではどうしようもないこともある.

つづく
 

Wednesday, January 28, 2009

町内犬地図 (4)

最近は本当に野良犬や放し飼いの犬を見なくなった.
ファームのある田舎でさえ,犬たちはもれなく繋がれている.
先日,たまたまリードが外れて,田舎道をブラついている犬を見かけた.
何だか激しく懐かしい気がした.
そして自分でもびっくりしたことに,知らず知らずのうちに右手が胸ポケットを探っていたのである.


最後に,悪い癖ですが「替え文」を一つ(これがやりたかっただけだったりして).

***
 ボーダーコリーの問題は「きりがない」ことだ。
 ボーダーコリーは確かに、お座敷犬やショードッグに比べれば品のない犬だが、逆にいえば、この犬はイヤというほど汚れることによってはじめて犬たり得る犬だ。こっちの身体が痛くならないと作業した気にならないのだ。ボーダーコリーにほどほどはない。やり足りないか、やり過ぎるかのどちらかなのだ。
 しかもボーダーコリーは、自宅の室内はもちろん、庭でも公園でも車の中でも、旅行や買い物や仕事にも、着いてくる。ボーダーコリーは私が行くあらゆる場所に、あまねく存在し、私に向かって、
「さぁ遊びますよ」
と呼びかけることをやめない。
「勝手に遊んでやがれ」
と、思うときもあるが、そうやって一途に私を見つめて待ってくれているものを、拒み続けることができるだろうか。
 救いのない話ですまない。そう。お察しの通り私はやつらを無視しながらこれを書いている。本当にうざい。
***

おわり
 

町内犬地図 (3)

話がずれた.
とにかくその頃には町のあちこちに親交のある犬がいて,彼らと挨拶を交わすことが日課だった.
そのおかげで,幼なかったまろ少年は,随分と気分的に救われていた気がする.

子供は気楽で良いと言う人もいるが,そんなこともないと思う.
大体子供なんて,勉強とか行儀とか,つまらないことばかりさせられている.ほんとうに怒ったり喜んだりできるのは(つまり本当に物事を楽しめるのは),年を重ねていろんなことが見え始めてからだ.
そのくせ,生きることへの不安とか混乱は,大人と同じか,むしろそれ以上に感じている.実際,子供は庇護されないと生きていけないんだし,知識や経験を使って,わけのわからない不安から目を逸らす術も知らない.何より,言葉を操ってその不安や混乱を人にパスすることができない.

皆ではないにしろ,そんな子供にとって,街のあちこちに知り合いがいるというのは,実はとてもありがたいことではなかったかと思う.
少なくとも自分はそうだった.
飼い犬も含めて,彼らは決して幸せには見えなかった.幸せどころか,生きるか死ぬかの瀬戸際というようなのも少なくなかった.そんな彼らが,それぞれの厳しい生活を背負ったまま,うれしげな顔で,たまに出会うだけの少年に親しみと礼儀を示してくれるのである.
たまたま,特に気の良い2,3頭に出会えただけで,その日一日,町や社会に受け入れられた感じがすることもあった.
大人にとって取るに足らないことかも知れないが,そんなことを経験できる機会は,多ければ多い方がよいと思うのである.

(4)に続く
 

町内犬地図 (2)

自分を振り返ると,物心ついてから今日まで,大体において犬は好きだったけれど,ピークは小学校3年の頃だったと思う.その頃は,頭の中に「犬地図」があった.その地図には,町内のどの家に犬がいるかだけでなく,どこの犬は人懐っこいとか,どこの犬は冷たいとか,そして大事なポイントとして(その家の人から怒られるか否かを含めて)どこの犬が外から触れるか,といったことが,きめ細かく書き込まれていた.

飼い犬だけじゃなく,野良犬に会える場所にも詳しかった.お宮さんとか原っぱとか壊れかけの空き家とか,当時はそんな「野良犬スポット」が結構あった.
そして,学校に行きたくなくて家でぐずぐずしていると,犬地図のいたるところから知り合いが顔を出し,そいつらが一斉に「○○君,つまんないよぅ」と語りかけてくるのである.おかげで遅れずに家を出ることができた.ただ,あちこちの犬に挨拶しながら歩くので,やっぱり遅刻してしまうのだけれど.

前にも一度書いたことがあるが,外に出かけるときにはいつも,上着の胸ポケットに一握りのだしジャコを入れていた.知り合いへの挨拶だけでなく,警戒心の強い犬や愛想の悪い犬を手なずけるのに使った.たまに自分のおやつになることもあったけど.

たまに,そのジャコが胸ポッケに残ってるのを忘れたまま,服を洗濯に出してしまうときがあった.
知らないでしょう!?...洗濯機の中のジャコの怖ろしさをっ!
たった2,3尾の身とウロコが水流でほぐれ,幾千の断片となって浮遊し,洗濯物に付着するのである.
最初のうち,母は洗濯物に着いたキラキラが何かわからなかったらしい.やがてその正体が判明すると,どちらかというと温厚だった母もさすがにブチ切れた.後始末の大変さくらいはわかったので,申し訳ない気持ちで一杯だった.
ただ,その癖はなかなか直せなくて,中学生になっても同じことを仕出かしたことがあった.そのときはキラキラしたままの制服を渡されただけで,何も文句は言われなかった.
母はきっと,,,情けなかったのだろう.

(3)に続く
 

町内犬地図 (1)

話のきっかけに,アル中歴のあるコラムニスト小田嶋隆氏の一文をお借りする(さすがプロ,ビール片手にこんな文章が書けるとわ).

***
 ビールの問題は「きりがない」ことだ。
 ビールは確かにウイスキーや日本酒に比べればアルコール度数の低い酒だが、逆にいえば、この酒は浴びるほど飲むことによってはじめて酒たり得る酒だ。頭が痛くならないと飲んだ気がしないのだ。ビールに適量はない。飲み足りないか、飲み過ぎるかのどちらかなのだ。
 しかもビールは、自宅の冷蔵庫にはもちろん、自販機にも喫茶店にも映画館にも、ドライブインやそばやにも、ある。ビールは私が行くあらゆる場所に、あまねく存在し、私に向かって、
「冷えてますよ」
と呼びかけることをやめない。
「勝手に冷えてやがれ」
と、思うときもあるが、せっかく私のためにそうやって冷えてくれているものを、拒み続けることができるだろうか。
 まとまりのない話ですまない。そう。お察しの通り私はビールを飲みながらこれを書いている。本当にすまない。

***

なるほど酒好きには世の中ってそんな風に見えてたのか.
まろはからっきしの下戸だからビールたちは一向に呼びかけてくれないが,"ビール" を "犬" に置き換えれば,その感じだけはわかるような気がする.

(2)に続く